コリント人への手紙第一(7)

2019年10月6日
聖書箇所:Ⅰコリント2:1~5
説教題:聖霊の力に励まされて生きよう

おはようございます。今日は前回に続いてⅠコリント2:1~5節になります。今迄の流れを確認しますと、コリント教会の分派間の争いの根源はこの世の知恵を高めていく事こそが神に喜ばれると思い込んでいたのが要因だったことを学びました。

これに対して、パウロはこの世の知恵に基づく信仰生活ではなく、神の知恵に生きよと勧めます。そして彼らの召しに照らし合わせて、神はこの世の弱いものや愚かなもの、この世のとるに足りない者、見下されているものを選ばれたよねと言います。

それによって自分達には知恵があると思い込んでいる人が本当の姿を知らしめるために神はない者を選ばれたというのです。それが実現するためにキリストは、信じる者の内に住んで下さり、神の知恵を豊かに与え、義と清めと贖いとなられました。義はキリストによって神の前に立たせてくれた。きよめ、神の前に出られるようにしてくれた。贖い、私達をキリストの十字架の御業という身代わりの代価によって買い取ってくれた。であるので人間的な誇りは捨てて主を誇るものとされようと励ましたのです。今日はその続きで使徒パウロは自分の生き方を通してコリント教会の兄弟たちを励ましています。今日は時間の関係で3節迄。

 

1:パウロはユダヤ教の中でも厳格なパリサイ派とよばれるグループに属していた人物です。豊かな教養があり、人の前では非の打ち所の無い人間でした。当時の社会では超一流の人物だったのです。そしてイエスは偽のメシヤであると思いこみ、イエスをメシヤと信じる人々を迫害したのです。彼はこの世の知恵という点からすると抜群の能力があった人物です。

 

パウロはコリントで1年半、伝道してコリント教会を設立しますが、彼は神の奥義であるイエス・キリストの十字架のみわざを人々に伝える時に今まで自分が身に着けていたこの世の知恵を用いて伝道する事は一切有りませんでした。豊かな知識があるのにもったいないと思うかもしれませんが、パウロはそのような事は一切しませんでした。ではどうしたか。

 

2:イエス・キリスト、即ち十字架につけられた方の他は何も知るまいと決心したからだというのです。イエスキリスト以外、一切語るまいということではありません。知るまいと決心したというのです。これは新しい知識を一切受け付けないということではありません。

知るという言葉は聖書では、ただ単に物事を知るということではなく、人間の生き方の深みにまで入っていく言葉です。何を信じ、何により頼んで生きるか、誰と共に生きるかという奥深さが「知る」という言葉の中に意味があるのです。パウロはイエス・キリストと出会いキリストの信仰者になった時に、生き方が根本的に変わったというのです。これが彼の生き方でした。ですから何か知識を一つ一つ増やして賢くなったということではないのです。

 

3:面白い言葉が出てきます。恐れ、不安、おののき、イエス・キリストにあって全く新しく、そして根本的に生き方が変えられたら普通、喜び、平安、希望をもってキリストを証しするのではないでしょうか。しかしここではそのような言葉は有りません。弱さ、恐れ、おののいて(不安)いたとあります。ここにパウロがコリントで伝道していた時の一つの側面があります。なぜこのような弱さや恐れ、不安があったのか。それは十字架につけられたキリストを信じ、キリストにより頼み、キリストをのべつたえていた、そのことが弱さ、恐れ、不安をパウロにもたらしたというのです。

実際私達が信じているキリストの負の側面を言うならば、ポンテオ・ピラトから死刑の宣告を受け、十字架で磔になった方です。というのは他の人にとって生かしておけない罪人として人々から拒絶され、捨てられ、殺されたのです。その面だけを見て、イエスキリストを信じ、信頼し、共に生きる事は決して喜び、平安、希望をもたらす事はないのです。人々から高められたり尊敬されたりするような事はないのです。

 

しかし神の子としての視点でキリストの十字架を前にした時に自分の罪を示されるのです。それは自分の努力や訓練では解決するものではありません。神の独り子、キリストが私たちの罪の身代わりとなって命を投げ出したのです。自分の罪はキリストの十字架の死と復活によってしか解決しない事を示されるのです。つまり、十字架につけられたキリストを前にした時に、自分を優秀だと思う気持ちや、プライドが打ち砕かれるのです。十字架につけられたキリストを知るとはまさしく己のプライド、誇りを否定されます。それはパウロのとっても私たちにとっても弱さ、恐れ、不安なことなのです。これは賢明な在り方です。が、クリスチャンになっても人はプライドをもってそれにすがって生きている面があります。自分は出がいいとか、家柄が良いとか、経済力があるとか、学歴が高いとか、スポーツする能力とか、美しいとか色々あります。

 

パウロはこの点ではずば抜けた能力の持ち主でした。でも彼はイエスの弟子を迫害するためダマスコ行くその途上でイエスと出会い、打たれて目が見えなくなります。ここで初めて復活のイエスに敵対し、神の民の群れを迫害していたことを知らされたのです。彼は今まで確固として自分を支えていたと思われるものがガタガタと、音と立てて崩れていくのを体験し、自分の誇りやプライドは崩れたのです。

その時、正に本当に自分を支えてくれる真の土台であるイエス・キリストを体験的に知るのです。イエス・キリストこそ神に敵対していた自分の罪を全て背負い十字架に掛かって死んで葬られ復活し、赦しと恵みを与えて自分を生かしてくださると知るのです。こうして彼はキリストと共に生き、キリストに仕え、従うものとされました。今日はここまでです。

結び

私たちもパウロの様に十字架につけられたキリスト以外何も知らないと決心をさせていただこうではありませんか。イエス・キリストと出会い、信じてキリストと一体とされたてから知識を一つずつ増やして賢くなるということではなく、根本的に生き方が変わるのです。これが本来のキリスト者の生き方なのです。日頃の生き方で勝負するのがキリスト者です。ここがはっきりしないと、ずっと信仰生活か曖昧で、主の恵みや豊かさを味わいきれないまま、あいまいなキリスト者人生を送ってしまうのです。時に日本人は私も含めてここが弱いですね。あなたはどうですか。もう一度イエスの十字架を見上げて歩んでまいりましょう。