コリント人への手紙第一(6)

2019年9月29日
聖書箇所:Ⅰコリント1:26~31
説教題:キリストがしてくれたみわざ

おはようございます。今日は前回に続いてⅠコリント1:26~315節になります。今迄の流れを確認してまいりましょう。

既にご存じのようにコリント教会には、いくつかのグループによる党派間の争いがありました。その背景にあったのは、キリストの知恵に生きるのではなく、この世の知恵を重視する傾向からくる、自分達が正しい、立派である、すぐれたものだ、この価値観で神に近づこうとしたのです。それ故使徒パウロは十字架の言葉を大切にし、この世の知恵に生きるのではなく、主に召された人にはキリストこそが神の力であり、神の知恵だと強く勧めます。

 

26:自分たちの召されたこと、召されるとは全て神が主導権をもって人を導いておられるということです。それを基に、兄弟たちよ、あなたがたがイエスを信じた時の事を考えてみなさいと言っています。この世の、人間の基準や評価によって賢いと言われる人は多くなかったでしょう。地域の有力者も多くないし、家柄が良いとされる人も多くないでしょう。現実的にコリント教会に導かれた人々は指導的な立場の人はそれほど多くありませんでした。これは、一般的にもそうだと思います。私たちの教会もこの世的にはごく普通の立場です。

 

27:しかし神はこの世の知恵ある者を辱めるために、あえてこの世の愚かなものを選び(コリント教会の人であり、私達)ました。あるいはこの世の強いものをはずかしめる為に、この世の弱いものを選ばれたのです。これはコリント教会ばかりではなく、現代に生きる私たちの教会でも同じですね。それだけイエス・キリストの力が信仰者の内に働くと人は変えられていくのです。そして主の名が崇められ、己の知恵や力を誇る権力者が恥ずかしくなるという流れです。

 

ところがコリント教会では悲しいかな。知恵があれば神に喜ばれると思い違いをしてよりこの世の知恵を求めて競い合っていたのです。人間的な知恵や、立派さ、上へ上へと昇っていこうとする上昇志向を持って行く事が神に喜ばれる正しい正義と思い込んでいたのです。

 

そこから出てくるのは人との比較です。人と比較して、自分の方がすぐれているとか、優越感を持ち、自分が劣っているとか、劣等感を持つのです。でも神のなさる業は逆でイエスをこの地上に送り、下へ下へと歩ませて、人よりも低くなり、そして最後は十字架の死により人を救います。人の心とは全く逆の方向に神の御心は有ったのです。

 

日本のキリスト教会を見るとどうでしょうか。余りにも知的な方向に偏り過ぎてはいないでしょうか。人の中身を見ないで、海外に留学して、学位をとる。それは素晴らしい事ですが、それだけでもてはやしてし、無条件で受け入れてしまうような傾向があります。それはその人が持っているとされる知的なものへの憧れがあるからです。

また牧師はより専門的な職業となり、専門的な言葉を使い、知的な事を追い求める傾向があります。そうすると、宣教する賜物を持つ兄弟姉妹が教会で証をし、健全な説教が出来る様になることを妨げてしまう結果となってしまいます。このように多くの場合、説教は牧師の専売特許の様になっていないでしょうか。ここに私達が陥りやすい知的重視の罠があります。現に牧師だけが講壇で宣教するのは当たり前でしょうと思っている人が多いと思います。

今までのキリスト教会の歴史を大切にしつつも、もう一度新約聖書の原点に立ち返っていく必要があると思います。そして説教については、賜物がある人が教会内で訓練を受けて、神の知恵と御霊の力により語って欲しいと真剣に望んでいます。

 

28~29:27の続きとして、コリント教会ではこの世のとるに足りない者や、見下されている人が神に選ばれました。その理由は、ある者をない者のようにするためだというのです。ある者とは有力な力ある人々という事で、無いもののようにするとは役に立たないようにすることです。即ち弱く力のない人がキリストを信じて新しくされ、恵みと信仰によって生きる時、キリストは神の力、神の知恵となって神の力が発揮されます。そうするとこの世の知恵や力が役に立たなくなるということです。

 

その為に無に等しいものを選ばれた。無に等しいとは何もないという意味ではありません。小さいけれどもあるのです。でもここの言葉は無に等しいというのではなく、本当に無、存在しないという言葉です。即ち、神の選びと召し、つまり救いは私たちの側の条件によるのではなく、一方的な神の恵みによるのだと語り掛けているのです。これを自分自身に適用すると、私のようなものでも神に選ばれたのは、神の一方的な選びと召しによるものだとわかります。こう考えると人と比較して、優越感を持ち、劣等感を持って生きる事は実に愚かな事だと思いませんか?最終的には優越感や劣等感から解放されて、ただただ自分の使命に生きる事を優先するようになるのです。そういう人が集まる教会はトラブルが少ないのです。一方、コリント教会の様に、この世の知恵を多く持ち込む教会はトラブルが多いのです。

29:これこそ誰をも誇らせない神の知恵。

30:以上神の前に優越感や劣等感から解放されて自分の使命に生きるにはどうすべきか。

①キリストの十字架のみわざを信じた時に、私はキリストと結ばれキリストの内に入れられた、新しいキリストの命を受けている。これを認める。

②常にキリストのみ心の内に生きようと願い祈ることです。キリストこそ私たちにとって神の知恵であり、優越感や劣等感から解放されて自分の使命に生きるようになる。

③義と清めと贖いになられたキリストを見上げて生きよう。義。キリストによって神の前に立たせていただいた。聖。神に近づくことが出来る様にされた。贖い。私達が救いにあずかれるように、罪の代価としての身代金を払ってくれた。十字架上の御業のこと。

31:己の知恵を誇りとするのではなく、主を誇れ。

むすび

世界は今、多くの国々が自国第一主義を掲げて混乱しています。それは神の知恵に頼らず

この世の知恵を誇りとしているからです。今こそ私達はキリストから知恵を受けて社会や、地域で、家庭で、職場でそれぞれに与えられている使命を果たしてまいりましょう。