コリント人への手紙第一(4)

2019年9月15日
聖書箇所:Ⅰコリント1:18~25
説教題:キリストは神の力、神の知恵

おはようございます。今日も共に礼拝を捧げる事が出来る恵みを感謝します。また9月の誕生祝い会や敬老祝会も出来ます事を感謝します。

聖書箇所はⅠコリント1:18~25節になります。既に学んだ通りコリント教会には党派間の争いがありました。これを憂いた使徒パウロは解決策として、十字架の言葉が空しくならない為に、言葉の知恵によってはならないと述べています。その続きが18節からです。

その前に質問を一つ。日本でキリスト者が少ない理由は色々ありますが、一つ上げるとすればどのような事が考えられるでしょうか。例えば日本人は学問豊かな人が多いですがイエスの十字架の死と復活の話を聞くと愚かな事、あるいは、ばかばかしい事と考えてしまう人が多くいます。2千年前のキリストの死と自分にどんな関係あるのか。第一、神が人となられ、しかも十字架に掛かって死に、復活するという話は面倒くさい、ばかげた事と思うからです。進化論が根底にあるので創造主なる神はいないと頭から決め込んでいる人が多いというので十字架の言葉を受け入れないというのが一つの要因として考えられます。そのような事を頭に入れながらみことばを見てみましょう。

 

18。このみことばは有名なので暗記している方も多いと思います。声に出して読んでみましょう。まず意味を確認しましょう。十字架の言葉とは、キリストが人の罪を赦す為に十字架に掛かって死んで葬られ、よみがえられたというメッセージです。信じたら救いを受ける。信仰による救いですね。一方、このメッセージは滅びに向かっている人には愚かな話で、信じるに価値はない、ばかげたことであるという考え方です。でも救いを受ける私たちにとっては、これこそ神の力であり、キリスト信仰の中心でここに神の力が現れるのであります。

 

19:しかも19節で、この神の力はこの世の知恵ある者の知恵を滅ぼし、この世の賢い者の賢さを空しくするとまでパウロは言いきります。

 

以上が18~19節の説明ですが、皆さんは十字架というとどんなイメージを持ちますか。人生の敗北者、無残な死、呪いの印、失敗の結果、犯罪者とか色々です。この様に多くの人にとってキリストの十字架は良くないイメージです。旧約聖書を見ても「木に掛けられるものは呪われたものである」とある通りに呪いの象徴であり、良いイメージは有りません。

 

でも救いを受ける私たちには十字架の御業こそ神の力です。キリストは私達が受ける神からの呪いを代わりに受けて下さったからです。そして救いを受ける者は使徒パウロやコリント教会の人たち、私たちも入ります。この様に人々に嫌われる十字架のことば、メッセージが救いを受ける者にとってむしろ神の力の現れと聖書のメッセージを受け止める事が出来ます。私もそのように聖書の言葉を信じた者の一人ですが、考えてみると不思議ですね。神を信じる者は弱いもので自分は信じないと思っていた者が、キリストの十字架の御業を信じ、福音を伝える立場に変りました。何がそうさせたのか。それは自分自身から出たことではなく聖霊、御霊の働きによるのです。目には見えませんが聖霊様が働いてくださったから私達は救いを受けたのです。何故私のような愚か者に聖霊が働かれたかは良くわかりません。

 

ここで聖霊について考えてみましょう。聖霊は神ですね。聖書の神は唯一、ただおひとりの神です。しかし3つにして一つなる神であり、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)聖霊なる神(御霊)三位一体なる神の一位格を持っておられます。

この聖霊なるお方は目に見えない、控えめなお方ですが、確かに存在し、私たちに関心を持ち私たちの為に助け主として、又癒し主として、日々私達を支え導いてくださっています。このお方の働きにより私たちは救いに導かれ、十字架の言葉をばかばかしいとか、愚かなものだと思わずに、そのまま受け止め救いを受けたのです。そして神の力を受けて歩む事をよしとされたのです。

 

2:12~14。御霊を受けた人と御霊に属さない人の対比があります。2組のグループ。ここを読んでみましょう。14節~先に読む。御霊を受けている事と受けていない違いをよく理解して人と交流することは人間関係を上手にできる賢い方法です。この時神の力、神の知恵を受けて歩むことが出来ます。そして未だ御霊、聖霊を受けていない方の救いの為に祈りつつ、謙虚に、共に生きる事が私たちの役割ではないでしょうか。

 

適用 恵みによる救い

私達は一方的な恵みによって聖霊を受けた者で、優れているからではありません。

どうして私達が選ばれたのか、御霊を受けたか、救いを受けたかわかりません。

ただ一方的な神の恵み以外に考えられません。

そして私にも、この世でなすべき使命があってそれを忠実に果たす為なのかと思わされています。ここからキリスト信仰のスタートが始まります。

 

結び

今週も神の力、神の知恵である、イエス・キリストの十字架の御業による救いを受けた一人として主の前に誠実に歩みたいと願っています。そしてその歩みは自分の頑張り信仰ではなく恵みと神の力により頼んで聖霊の力と励ましを受けて歩んでいきたいと願っています。