コリント人への手紙第一(2)

2019年8月25日
聖書箇所:Ⅰコリント1:1~9②
説教題:聖徒として召されるとは

おはようございます。今日は前回に続きコリント人への手紙第2回目になります。題は「聖徒として召されるとは」です。聖書箇所は前回と同じで、挨拶と感謝のところですが、非常に中身が濃いので学びがいのある所です。時間の関係で6節までになります。

2:神の教会

ノンクリスチャンの方と話す時に、教会というと、どの教会ですかと聞かれる事があります。そのよう時にすぐキリスト教会と返事します。日本語で教会と呼ぶのはキリスト教会だけではありません。天理教や立正佼成会も教会と言います。ですから教会という言葉は非常に紛らわしいものです。でも日本ではキリスト教会という言葉が定着しているので使うようにしています。

 

さて教会とは教える会と書くので教会は教えてもらうところと思っている人が多いですし、クリスチャンになってもいまだに礼拝で牧師に説教で教えてもらうと思っている人もいます。また建物は教会とは言いません。教会の元の言葉はエクレシアと言いまして、呼び出された者の集まりを意味します。エク・に~、カレオー・呼ばれる、誰から呼ばれたか、神からです。よってキリスト教会とは「神に呼び集められた者の群れ」という事になります。また私たち一人一人を教会という場合もあります。そこでは教えてもらうと言うより、共に神を礼拝する群れであり、イエスを中心とする共同体であります。また建物は教会堂であって教会ではありませんのでご理解下さい。

 

ここではコリントにある神の教会と言っていますので、コリントの地で神に召し出されて神を礼拝するクリスチャンの群れをコリント教会と言っています。また・・・即ち、主イエス・キリストの御名をいたるところで呼び求めている全ての人々と共に聖徒として召されとあります。コリント教会の他の地域教会も神の教会、ひいては今の日本の、最終的には全世界の教会、これが使徒信条で告白する聖なる公同の教会と呼びます。この様に教会とは本質的に一つであり同じなのです。

2:聖徒として召されるとは

この言葉はキリスト者が、清く正しく、間違いがないという意味ではありません。良く聞く話として教会は清く正しい人ばかりで、みんなよい人ばかりが集まっていると思って、出席したらそうでもなかったという話はたまに聞きます。本庄教会ではどうなのでしょうか。

しかし、今申し上げたように聖徒とは、聖人という意味ではなく、神のものとして選び分けられているということです。教会に集まるのは清く正しいからではなく 神によって召され、選び分けられているが故に今ここに聖いという立場を受けた。イエス・キリストの十字架の血潮によって神の前には完全に聖くされているということです。では聖徒として召されたらどうすればよいか、それはこの地上の生涯において、聖霊の励ましを受け一歩一歩成長させていただき整えられる事、そして考え方、生き方がイエス様に似る事です。それを目指すのがキリスト者の生き方であります。

 

2:キリスト・イエスにあって聖なる者とされている

にあって:中にあるという意味。この言葉は非常に大切です。英語のinですね。目には見えませんが、メシヤの中に入りイエスと繋がっている、結び合わされているという意味です。別の言葉でいうとイエスの命がコリント教会の信徒の内に入っているのです。それ故、すでに神のものとして選び分けられているのです。これが聖なる者とされたという意味になります。これからキリストにあってという言葉が出てきたら注目して下さい。

4:キリスト・イエスにあって、

ここも、あってという言葉が出てきます。ここもキリスト・イエスの中にあるということです。即ちキリストを信じた者はキリストと結ばれているということです。そしてキリストの命を受けています。

5:キリストにあって

ここのあっても信者はイエスの中に入っている事を示す言葉です。即ちキリストと結ばれて一つにされキリストの命を受けているのです。3回もキリスト・イエスの内にある信仰者の立場を示しているのです。それこそ神の恵みであることをパウロは深く神に感謝しているのです。

適用 私たちの立場

私たちもイエスを信じる信仰と恵みによって目には見えませんが、キリストの中に結び合わされて命を頂きました。神によってキリストのものへと選び分けられたのです。これは2千年前のコリント教会の信者も、現代に生きる者も同じです。但しこの段階では神の前に生まれ変わっただけです。

 

次は聖化の段階になります。聖化と言っても聖歌を歌いまくる事ではありません。日々の信仰生活がイエス様の性質に似てくることです。そして生き方を通してキリストの心で、まだ信仰を持っていない外の世界に現わしていく事です。具体的には自己中心にならず、弱い立場の人や困っている人を助けることです。このような生き方をすれば私たちの周りに自然と人は集まり、交流が出来てきます。やがて時間を経過する中でキリストの心に触れて救いを受ける人が多くなってきます。

 

では何故今の日本で救われる人が少ないのでしょうか。どこの教会も伝道に一生懸命なのです。

積極的に有名人を招いて音楽会をし、料理教室、テレビ伝道、トラクト配布等々、日本の教会は熱心です。でも毎年教会は少なくなり、クリスチャン人口は減っていく傾向です。高齢化で亡くなる人の方が多いからです。それ程日本は伝道が難しいのでしょうか。私はそうは思っていません。聖書を読んでいても聖書にある生き方と遠い所にいるからではないでしょうか。

 

私たちが本気で神を愛し、隣人を愛する生活、生き方がすれば変わります。言葉で愛を語りますが、愛に生きていないのです。コリント教会の様に、私たちに内輪もめや、他人の悪口、陰口は有りませんか。なければよいのですが、今こそ私たちは自分の生き方を点検する必要があります。どのように点検するのか。新約聖書を読みなおして、著者が何を言わんとしているかを理解できる聖書の読み方に変わる事、そして多くの課題を抱えながらも懸命に信仰に生きた人々から学ぶ事です。この様に今の立場に満足せず神と隣人愛に生きるならば、時間はかかりますが教会は変わり、周りの人も変わります。これは私の持論です。

 

因みに戦国時代のキリシタン人口は40万人~60万人と言われているのはご存知でしょうか。当時の日本の総人口は1500万人として50万人だと割合は3%になります。すごく高い割合です。今の日本の人口は12500万人でキリスト者は50万人位でしょうか。0.4パ-セントです。今と昔の違いは何か。当時の信者はイエスへの信仰を中心で生きていたのです。生活と信仰が一致していたのです。それ故人々はその生き方に魅力を感じて信仰者が増えていったのです。

結び

私たちも今コリント教会から自分の事と受け止め学んでまいりましょう。そして聖徒として召されている事がどれほど素晴らしい事であるのかを確認しましょう。そして実行すべきことは実行し、直すべきは直してまいりましょう。