コリント人への手紙第二(18)

2021年10月24日
聖書箇所:Ⅱコリント9:1~5
説教題:惜しみながらでなく、祝福の贈り物として  

おはようございます。共に集まり礼拝を捧げる恵みを感謝します。またライブ配信で礼拝を捧げているあなたもおはようございます。共に礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。

さて、今日はコリント人への手紙第二9章になります。初めにこの手紙が書かれた背景を復習しましょう。コリント教会はパウロが設立したギリシャのアカヤ地方にある教会です。土地柄故に知恵や知識を求める人々が多く集まり、信仰熱心な教会でしたが、その反面、教会がキリストの体で、相互の信頼や愛によって成り立っていることを忘れ、自分を誇り、互いの正義や優位性を主張した為に教会員同士が分裂してしまいました。そのことを知らされたパウロが彼らの過ちを指摘し悔改めを求め、正しい在り方を教える為に書いた手紙がコリント人への手紙第一です。

でも期待していたような成果はありません。そこでパウロはエペソに帰った後、もう一回手紙を書きます。これが2章4節にある涙の手紙と呼ばれているものですが、この手紙によっても最初は反応がありませんでした。

しばらくして先にコリントに派遣していたテトスからコリント教会の人たちが罪を悔改めた、変えられたという知らせが届いたのです。彼らはキリストが自分の罪のために死んで、葬られ、よみがえられた十字架の御業について、また、教会の在り方について、罪を悔改め、もう一度よく教えられたと思います。

そしてパウロは喜びの内に再度手紙を書きます。それが、今、私たちが読んでいる、コリント人への手紙第二です。こちらの手紙は第一の手紙の様に、罪や課題を指摘し厳しい口調では書かれていません。喜びと慰め、励ましに満ちた手紙です。そして後半は長い場所を裂いて献金について基本的な教えが実例を通して示されています。
何故か?コリント教会の皆さんがエルサレム教会を支える事に熱心なこともありますし、依然として教会内の一部の人がパウロを攻撃している事への反論もあると思います。パウロが献金をだまして自分のものにしている攻撃している人がいたからです。

また8章と9書を理解するに当たり一言。ここでの献金はエルサレム教会への支援(指定)の為の献金が主な目的です。何故エルサレム教会への指定献金なのか。当時彼らは、飢饉や自然災害による貧しさ、ローマの支配やユダヤ教の迫害によって弾圧を受け経済的に貧しい状態が続きました。これに心を痛めパウロはエルサレム教会の貧しい兄弟姉妹達を助けるために異邦人教会に呼び掛けて指定献金を募ったのです。それに答えたのが、マケドニヤの諸教会やコリント教会でした。

その理由は何故か。異邦人はユダヤ人から霊的な恩恵を受けたので、この頃特に貧しかったエルサレム教会の兄弟姉妹達に対して経済的な恩返しすることでした。この恵みの業を自分たちの経済力に合わせてエルサレム教会支援を始めたのが、9章1節の指定献金「聖徒たちの為のこの奉仕」と言う意味です。十分理解しているのでこれ以上書く必要はありませんと述べています。
2:第一の手紙で罪を厳しく指摘しているパウロの態度とは正反対でここでは非常に優しく、コリント教会の兄弟姉妹達を評価し誉めています。彼らは貧しいエルサレム教会の兄弟姉妹達を助けたい思いが強かったのです。それをマケドニヤ地方の兄弟姉妹達に対して、コリント教会の人たちは去年から準備できているよと誇ったくらいです。彼らの行動が多くの人々を奮い立たせました。
※彼らの生きる姿勢を通して多くの人が奮い立つことは良い証だと思います。私達も自分の生き方を通して周りの人が信仰の確信に立てるような生き方ができればいいなあと思います。

3:献金奉仕する兄弟たちを送るのは、コリント教会を誇りとしているから。この誇りが空しくならない為であり、良く準備して欲しいということです。
4:良く準備できていないと私が恥をかいてしまう事になります。

5:エルサレム教会への献金を「祝福の贈り物」と述べています。献金は神の前に強制されて捧げるものではなく、一人ひとりが、惜しまずに喜んで捧げるものです。それぞれが自らの意志と判断で捧げた献金なので、エルサレム教会の人たちが喜ぶ祝福の贈り物となるのです。それを予め良く準備しておいてくださいというものです。

ここが結びの部分で重要です:献金は惜しみながらするのではなく祝福の贈り物として用意するものとパウロは断言します。惜しみながらでなくとは、気前よく、喜んで捧げるという意味です。神の物を神にお返すする。これが献金を祝福の贈り物とするという意味です。受け取ったエルサレム教会の兄弟姉妹は主に在る同じ神の家族として大きな喜びをもって受け取ったことと思います。
適用
祝福の贈り物、プレゼント。これは、神と私たちの関係を表しています。実は私たちも神から贈り物を受けている立場です。罪のない神のひとり子、イエス・キリストを神が私たちへのプレゼントとしてこの世界に送ってくれました。神はご自身が愛する御子をこの地上に送って下さいました。父なる神はいやいやながらではなく喜んで私たちの救いのために御子yesを遣わして下さったのです。

エルサレム教会の兄弟姉妹達がコリント教会から献金を祝福の贈り物として喜んで受け取ったように、私たちも神からのプレゼントであるイエス・キリストを遠慮する事無く喜んで受け入れ、いつも彼に信頼して生きるならばどれほど幸いでしょうか。
そればかりか、yesはご自分の命を惜しまず、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして、ご自身のいのちを捧げ私たちへの救いの道を開いてくださいました。私たちのすることはイエスを救い主、メシヤとして受け入れ、彼に信頼して生きる事だけです。
結び
今日の聖句を通して、主への感謝を惜しむことなく主にお返すするような人生を送れたら幸いです。そうしたら神からの祝福が返ってきます。コリント教会やマケドニヤ教会の兄弟姉妹たちの惜しみない捧げ方を通して、私達も献金する心を学びつつ今週も主の前に歩んでまいりましょう。