コリント人への手紙第二(16)

2021年10月10日
聖書箇所:Ⅱコリント8:8~15
説教題:主は富んでおられたのに、貧しくなられた  

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さて、今日はコリント人への手紙第二8章まで来ました。初めに手紙が書かれた背景を考えます。コリント教会はパウロが設立したヨーロッパの教会です。土地柄故に知恵や知識を求める人々が多く集まり、信仰熱心な教会でしたが、教会がキリストの体であり、相互の信頼や愛によって成り立っていることを忘れ、自分を誇り、互いの正義や優位性を主張した為に分裂してしまいました。

信徒がそれぞれキリストの体一部で、補うあう存在であることを忘れてしまうと内部が混乱していきます。そのことを知らされたパウロは手紙を書きました。コリント人への手紙第一です。しかし彼が期待していたような成果はなかったので、エペソに帰った後、もう一回手紙を書きます。これが2:4にある涙の手紙と呼ばれているものです。でもこの手紙をよっても、最初は反応がありませんでした。

しかし、しばらくしてテトスからコリント教会の人たちが罪を悔改めたという知らせが届いたのです。彼らはキリストが自分の罪のために死んで、葬られ、よみがえられた十字架の御業について、教会の在り方について、悔改めを通してもう一度よく教えられたのだと思います。
そしてパウロは喜びの内にもう一度手紙を書きます。今私たちが読んでいる、コリント人への手紙第二です。この様に手紙が書かれた事情や背景を見て行くと聖書理解が深まりますのでその流れの中で学んでまいりましょう。

そこで今日は8章8~15。8~9迄。①コリント教会の愛を確認と、②10~15献金についての基本的な考えをパウロは書いています。2つみていきましょう。
①8:命令しているのではない。何を?1節~8節に書かれているマケドニヤ諸教会に与えられた献金の恵みについて、コリント教会でも献金の恵みにあふれるようにと言う思いをのべています。但し、これは命令しているのではない。自分としては、マケドニヤ諸教会の人々の熱心さを通してあなた方のキリストに在る愛が本物かどうかを確かめたかったのですと、述べています。

9:献金理解はキリストの恵みを知ることがポイントです。自分がキリストの恵みによって生かされている事を感謝し、それに対する応答が献金となって現れます。その為に、第一にすべきはイエス・キリストを見上げることです。
①主は富んでおられた。主とはイエス・キリストの事で、イエスが人としてこの世界に来てくださる前は神の子の立場で、父なる神と共にいてくださいました。世界を創造し、人を創られた時、共にいてその御業に参画されたのです。栄光に満ち富んでおられたお方、それが人としてこの世界に来られる前のキリストです。
②あなた方のために貧しくなられた。この世界に聖霊の働きによって人として来られたということです。洞窟の家畜小屋で貧しい大工ヨセフの子として母マリヤから生まれ、30歳から3年間神の子として公生涯を歩まれ、神を愛し、人を愛して歩まれました。友なき者の友となり、虐げられている人を訪ね、奇跡の業を通して病人を癒し、愛を行動で示し、寄り添ってくださいました。神の言葉を語り、求める人を救うお方です。しかし、その歩みは貧しいもので、キツネには穴があり、鳥には巣があるけれど、人の子にはマクラするところもないという生活でした。
最後は人の罪を赦し、救う為に、罪の身代わりとして、犯罪人にされ、十字架に掛かって6時間苦しんだ後、死なれました。しかしキリストは後3日目に栄光の体で復活して十字架の御業の正しさを示されたのです。
③あなた方はキリストの貧しさによって富むものとなったのです。まさしくイエスは貧しさの極みである十字架の苦しみと復活を通して、ご自身を信じる者を救ってくださるのです。そして救いを受けた者は新しい命を与えられます。真に富むものとされたのです。

②献金についての基本的な考え 10~15
特にここでの献金はエルサレム教会への支援(指定)献金が主な目的です。何故か。当時のエルサレム教会は、飢饉や自然災害、ローマの支配やユダヤ教の迫害によって弾圧を受け経済的にも貧しかったのです。これにパウロの心が痛んだのです。そしてエルサレム以外の諸教会が立ち上がって、献金を集め経済的な支援を始めたのです。特にマケドニヤ諸教会、コリント教会が熱心でした。理由は霊的な恩恵を受けたので経済的な恩恵で恩返しすることです。この恵みの業を自分たちの経済力に合わせてエルサレム教会支援を始めたのがここでいう指定献金です。

結果的に皆が平等になります。13,14節、神の家族だということが前提で、彼らは貧しい人がいなくなりある程度の生活ができるようになります。この考えの背景は教会は一つ、神の家族であり、自分たちもその一員であると言う聖書的な考え方がしっかり育っていたのです。

勿論それぞれの経済力に差があることは普通の事ですが、神の家族においては特に貧しい人がいないように取り計らう神の計画に基づくパウロたちの行動だったのです。

15:ここは出エジプト記の記述。荒野でイスラエルの民が旅を始めて間もない時に、当然食べ物がなくなります。民はモーセやアロンに文句を言います。いう言葉は決まっています。昔は良かった。エジプトにいた時は肉やパンをあきるほどたべた。それなのに今はこんな様だと文句を言うのです。これに対し神はウズラを大量に送って肉を与え、朝毎に天からマナ(パン)を降らせ40年間彼らを支えます。彼らは食べる人数分に応じてそれを集め、彼らがその量を図ってみるとたくさん集めた人も余ることなく、少しだけ集めた人にも足りないことが無かったのです。安息日に備えて六日目には二倍のパンを集めることが出来ました。こうして必要な分はすべて必要な分だけ備えられたのです。それが、15節の意味です。
これは何を教えているか?神の家族に属する者は、主の恵みを分かち合うことが出来ます。教会の中で生活に困る人がいたら一定の必要が満たされるような配慮をしなさいと神は教えているのです。これを新約聖書時代の教会は進んで実行してきました。今、困っているエルサレム教会の兄弟姉妹を助け、かつて受けた霊的祝福を、今度は自分たちが物質的な祝福で返していくのです。
結び 
私達も兄弟姉妹に対する愛の行動、配慮、そして自分が住んでいる地域の中で特に弱い立場の人に目を向けて支援する事。
もう一度考え直して、自分たちの献金で何が出来る事を考えてみよう。そしてこの愛の御業の背景には、キリストが富んでおられた方であるのに私たちのために貧しくなられた事が前提です。