コリント人への手紙第二(6)

2021年8月1日
聖書箇所:Ⅱコリント3:12~18 
説教題:御霊なる主の働き

本庄キリスト教会の皆様おはようございます。またネット配信をご覧の皆様もおはようございます。お元気でしたか。今日も礼拝をささげる恵みに預かり感謝します。またライブ配信奉仕もありがとうございます。

それでは聖書を開きましょう。今日は前回の続きで3章12節~18節、「御霊なる主の働き」このコリント第二の手紙を理解するにあたって一言申し上げます。パウロがコリント教会宛てに、第一の手紙を書いた後、なかなかうまく物事が進まないので彼は、手紙2章4節)を涙ながらに書きます。しかし、後にテトスを通してコリント教会の人たちが罪を悔改めたという嬉しい知らせを受け、喜びをもってまた手紙を書いたのが、この第二の手紙です。第一の手紙から1~2年後のようでありますが、そんなことを頭に入れながら読むとしたしみがわいてくるかもしれません。
内容は、12節~15節、古い契約、16節~あたらしい契約と御霊の働きについて。

12:このような望みは、11節の消え去るべきものに対して、永続するものを示しています。
消え去る栄光について、モーセが神の栄光に満ちていたので人々がモーセの顔をまともに見ることが出来ませんでした。(出エジプト34:29~33)2回目のシナイ山です。しかしこの栄光は一時的であり、ずっと続く者ではありません。13節。モーセは消え去る者の最後をイスラエルの人々に見せないように自分の顔に覆いをかけました。

この一時的なものに対し、新しい契約の時代は、神の栄光がずっと続きます。それは神の御霊によってなされる業であり、新しい命の保証である、神の御霊が信仰者の心の内に住んでくださるからです。この望みを受けている私たちは主の恵みを自由、大胆に、恐れなく語ることが出来ます。

13:モーセが顔に栄光を隠す為に覆いをかけた理由が書かれています。出エジプト34:30
しかし新しい契約に生きる者は覆いをつける必要がありません。

14:しかし、イスラエルの人々は、聖書理解が鈍くなり、パウロ時代に至る迄古いモーセ律法にこだわり、心の覆いがかけられたたままでした。この覆いはキリストによってのみ取り除かれます。イエスは律法が要求するすべてを満たし、あの十字架上で律法の要求を全て人に代わり神が満足する御わざを成し遂げてくださいました。それが十字架刑の身代わりでした。
しかし、イスラエルの子らはパウロの時代になっても顔の覆いが取りのけられていない状態が続いていたのでした。

15:安息日ごとにユダヤのシナゴークでモーセ律法が朗読されますが、彼らの心には覆いがかけられたままで、モーセ律法が真に教えるところが見えてきません。律法の本体なるキリストの姿が見えてこないのです。またみようともせず形式にこだわっていたので本質が見えなくなってしまいました。こうなるとずっと旧約時代のままでイエスにたどり着く事がありませんので新約聖書の言わんとすることを認めることが出来ません。

16後半
イスラエルの民を邪魔していた心の覆いは、イエス・キリストに立ち返るなら取り除かれます。イエスこそ罪を示すだけでなく、罪の赦しと解放のために、神の子が自ら罪のない者として罪とされ人の罪の身代わりに十字架に掛かり死んで葬られ、三日目に復活し、今も生きています。このイエスを信じたら救いを受けます。その時に心を覆っていたものは消え去ります。この罪の赦しを得ないで、正しいことを示され、人間の努力で神の義を得ようとしたら聖書が求める信仰ではなくなってしまいます。形式化して、自分を高くし、良く見せる宗教になってしまいます。そこをイスラエルの民から学び取っていく必要があります。

17:神は霊なるお方であり、別の言葉で言うと、霊的存在者であります。人の目で見ることが出来ません。しかし主なるか神が確かにおられる証拠は、主が臨在するところには自由があります。
※これは私達が体験することですね。初めはキリストを信じると自由が亡くなると思っていたのが、信じたら本当に自由にされました。心が束縛から解放されて物事を自由に考え、良いと思うことを実行して自由に生きています。まさしく主なる神が共にいる証拠です。

18:ここはキリスト者の成長パターンです。
心を覆っていた覆いが取り除かれました。その上でイエスを見上げて行くと、栄光あるイエスの姿が見えてきます。そして次の段階へと進み、主イエスに似て来るのです。それがキリスト者の生き方であり、考え方ですが、成長するにつれイエス様に似た存在になっていきます。これがクリスチャンの成長パターンです。但しそれはいつも成功し、お金持ちになり、いいことばかり続くという意味ではありません。主イエスと性質や生き方が主と似て来る様にかえられます。同時に主イエスと同じようになるのでイエスが味わう苦難も私たちは味わうのです。これも主の恵みを味わうことになります。これがキリスト者の主と共に歩む幸いな生き方です。

そして、これこそが御霊なる主の働きなのです。目には見えませんが、御霊なる神は、私たちの内に確かに住んで、とりなし、励まし、導いてくださいます。これが御霊である主の働きです。そしてこの地上の生涯が終わるまで私たちと共にいて下さるのです。
自分達に適用してみると
○自由 イエスの十字架の死と復活を信じて罪の赦しを得て罪から解放されて自由にされた。
○御霊なる主の働き 御霊(聖霊)が私達の心の内に住んでくださり、とりなしてくださっているので、主の導きを受けやすくなった。神の心を受け止めやすくなった。
○悪い見本
イスラエル人がモーセ律法の外見に心が捕らわれて行ったように、私達も外見や形にのみ心を捕らわれると、本当のものが見えなくなってしまいます。常に物事の本当のところは何かを見て行くことが要求されます。クリスチャンになっても自分の頑張りで神に喜ばれようとすると信仰がずれてきますので頑張るクリスチャンは卒業しましょう。主の恵みに信頼して御心を求める信仰者になりましょう。

結び
最終的に私たちの真の模範者なるイエスを見上げてイエスと生き方や性質が似るように目指していく。これが私たちの生き方です。それこそが御霊なる主の働きの結果です。