コリント人への手紙第二(3)

2021年7月11日
聖書箇所:Ⅱコリント2:1~11
説教題:赦し  

おはようございます。ネット配信をご覧の皆様もおはようございます。お元気でしたか。
今日もあなたと共に礼拝出来る恵みを感謝します。又、コロナ禍の中で工夫しながら礼拝式を開催出来る事を感謝します。またスタッフのライブ配信準備もありがとうございます。

それでは今日の聖書箇所を確認いたしましょう。2章1節~11節、題は「赦し」です。
コリント第二の手紙はパウロがコリント教会の人たちが罪を悔改めたという嬉しい知らせを受けて書かれたものです。第一の手紙が書かれた1年、2年後の手紙です。そんなことを頭に入れながら読むと役に立ちます。

1~4:ここは1章23節の続きです。パウロがコリント訪問を延期したのですが、それについて2章4節まで続いています。パウロのコリント教会訪問延期が遅れたことによって、一部の信者から悪く言われます。軽率、二枚舌、信用できないとかいろいろ言われます。でもパウロは余計な弁解はせず、コリントへ行かない理由はあなた方への思いやりからだと述べるのです。

1:実はパウロが第一の手紙を書いた後、エペソからコリントを訪ねています。特定の人物によって、教会全体が動揺し大きな悪影響が広がっていたからです。しかしこの訪問は人々がパウロの言葉に聴き従わなかったので、結局失敗し、涙の訪問となりました。結果的に、パウロはコリント教会信者の信仰の在り方を通して非常に悲しい思いをしたのです。そしてこのような悲しい訪問は二度としないと決心したのです。

2:私を喜ばすのは、罪を犯した人が悔改める以外にないと言っています。

3:あの手紙を書いたとは、コリント第一の後の「涙の手紙」と呼ばれるものです。罪を悔改めて、
喜びに変えられるようにする為でした。パウロの喜びがコリント教会の喜びであると確信していた。でも実際はそうならなかったので、悲しい思いをしていたのです。

4:パウロは大きな苦しみと嘆きの中で、涙ながらに手紙を書いたのです。(第一コリントの後の手紙でなくなってしまいましたが)その手紙の内容は、コリント教会の信者を責めて悲しませるのではなく、あなた方に抱いているあふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。

※ここにパウロがコリント教会の兄弟姉妹に対しキリストの愛をもって関わっている姿を見ることが出来ます。私達もこのパウロの姿勢から学びたいと思います。自分が属する教会の兄弟姉妹や家族、友達に対して、上から目線での批判や裁きよりも、キリストの愛をもって接することを大切と考えます。ここまでが1:23節からの続きです。

5:11節までは実際に罪を犯して教会全体を悲しませた人物に対する関わりをのべています。
一人の人が犯した大きな罪、具体的内容はよくわかりませんが、これによって教会全体に大きな悲しみがもたらされました。パウロは私を悲しませたのではなく、あなたがた(コリント教会全て)を悲しませたといっています。ここに罪の悪影響があるのです。やはり一人一人が誠実に主の前に生きる事が求められています。

6:キリストの体に対して罪を犯した者は、教会内で何らかの刑罰があります。それはその人を見せ締めにして、徹底的に叩きのめして、キリストの体なる教会の交わりから外すのではなく、戻ってこられるような裁きを執行することです。厳しさの中にも愛の配慮が必要です。これは今の教会も同じです。ここでは神の前にも人の前にも十分なさばきがくだされました。

7:だからあなた方は、その人が悲しみで押しつぶされない為、その人を赦し、慰めよと勧めています。慰めは悲しみから喜びに変るものです。罪の刑罰を受けた人に優しく接する必要があります。

8:裁きは人を憎んでするのではなく、その人が悔改め、裁きに服したら、もう一度キリストに在って赦しの交わりに戻ってくるように勧めています。この愛の配慮が大切なことですね。パウロも自分の経験の中でダマスコの途上でキリストと出会った時、以降多くの人を通して主に導かれました。
9:涙の手紙を書いたのはコリント教会の人たちが主に在って従順な信仰を持っているかどうかを試すために書いたと述べています。

10:赦すとはキリストの前に在って赦す事であり、自分が上に立って罪を犯した人を見下げてする事ではありません。キリストの前で赦す。キリストが十字架に掛かって私達の罪を赦してくださったのは完全な罪の赦しです。私達もキリストの十字架のみわざを信じて罪赦された一人として、罪を悔改めた人に対しては赦す、過去を言いふらさない、いつまでも裁かないことが大切です。それがキリストの御前で赦すことです。共にキリストの十字架を見上げて、自分の罪の大きさとキリストによる赦しの大きさを確信することです。

11:そうしないとサタンに足をすくわれます。サタンは悪魔の事で、訴えるものと言う意味があります。罪の悔改めや赦しを徹底しないで、いつまでも人を許さずに裁いてばかりいるとサタンに乗ぜられます。それがサタンの策略です。サタンは人に怒りの心を起こさせ、教会内部を混乱させて、仲を悪くさせ、最終的にはキリスト教会を壊すのが彼の仕事です。そうならない為にもキリストのみ前で人を赦し、交わりを回復する必要があります。
適用
悪魔の策略に乗らないように自分を偉いと思ったりしない。人を上から目線で見ない。罪を犯したら神の前で素直に罪を悔改めて生きる、赦されて生きる。神の前に罪を犯しても悔改めたなら、キリストは赦してくださったのだから私達も許す。これが基本です。教会としても、個人生活でも。
結論
赦しのテーマは日常生活の中であります。罪を犯したら悔改め、神の赦しを確認する、そうしたらキリストにある交わりが回復する。これをキリストの御前で赦すといいます。これを実践してまいりましょう。悪魔の策略に乗らない、マタイ9:13正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た。常に人の前にも神の前にも許された罪人であるという謙虚さが必要です。(この意識を持ち続ける)