ピリピ人への手紙(14)

2022年07月31日
聖書箇所:ピリピ3:8~12
説教題:キリスト・主イエスに捕らえられて

皆様おはようございます。2022年7月最後の第5週礼拝を捧げる恵みを感謝します。またネット配信を通して礼拝しているあなたもおはようございます。お元気ですか?先週はどんな一週間でしたか?今日から始まる新しい週は是非頑張って生きるのではなく、主を信頼して共に歩んでまいりましょう。それでは最後迄共に学んでまいりましょう。

さて今日の聖書箇所はピリピ人への手紙3:8~12になります。前回はパウロのかつての輝かしい経歴から学びました。イスラエル民族の中でベニヤミン族の一員に生まれ、パリサイ派の指導者、その熱心さはキリスト者を邪道だと思い込んで迫害した人です。しかし彼はキリストのあわれみを受け、ダマスコへの途上でイエスと出会い直接声をかけられます。

使徒の働き17章にあの有名なダマスコの途上における事件があります。ここで彼はイエスと出会い自分の罪を悔い改めメシヤと信じて救いを受けました。ここから彼の人生は大きく転換します。主に彼は異邦人への使徒として召命を受け働きを始めます。180度生き方は変わりました。なぜこうも彼の人生は良い方向に向かって変わったのか。その答えが8節以降にあります。

ポイントは3つ ①最後のころに出てくるキリストを得た

8:キリスト・イエスを知っているすばらしさ。これはただキリストを知識として知っているとかいう事ではありません。日々の信仰生活の中でだんだんとキリストを知り、さらに深く、親しく知るようになったという事です。

どんなことを知っていったのか。それはキリストの圧倒的な価値。絶大な値打ち、これ以上ない値打ちを彼はキリストのうちに見出したのです。この世のすべてのことに対してです。財産、名誉、健康、将来の安定、この世のすべてに対してキリストの圧倒的な価値を知ったとき、今までの彼の誇りとするもの、得と考えていたものは全部損だと思うように変えられていったのです。

彼は一流のパリサイ派指導者でありましたが、その誇りとするものをすべて失います。でもそれらをちり芥であると思うようになった。ちり芥とはわかりやすく言うとゴミだ。もう自分には必要ないものだというのです。

※ここで皆さんに誤解してほしくないのはキリストにあって必要ないのであり、この世の中にあってはキリスト故に上手に用いることは全く問題ありません。例えばパウロは生まれながらローマ市民権を持っていましたが、それをあえて捨てることをせず、大切なところではその特権を用いています。ローマ市民権を持っている事をキリストにあって上手に生かしました。お金も同じです。主にあって用いるなら大いに生きたものとなります。失敗するのはお金を自分の欲を満たすことだけに使おうとするから、またけちるから主から取られるのです。

彼はキリストを得たとあります。これはキリストの救いを受け、キリストと一体になったこと。やがて救いの完成の時には、栄光の体に変えられる人生のゴールを見出したことです。このスタートが重要です。皆さんはこの大切な部分がはっきりしていますか。彼にはやがてキリストの再臨・携挙の時にキリストと同じ栄光の体に変えられること望んでいました。これがキリストを得ることです。私たちについても同じことが言えます。いかがですか?これが大切なスタートなのです。この救いの確信がはっきりしていないとずっともやもやクリスチャンで終わってしまいます。

9:ここでは8節と同じ事を言っています。キリストにあるものと認められて、すなわちキリストと命で結ばれ一体となること。今、既にキリスト者はキリストを信じた時、キリストと一体とされた。これを何と言いますか?そうです聖霊によってキリストにバプテスマ(一体)にされた。

では救いの完成はいつ起こるか。そうですキリストの再臨・携挙の時に私たちは栄光の体に変えられて体の贖いによって救いが完成するのです。 この救はどうして得たか?昔のパウロのように律法のひたすら守って得ることはできません。私は律法による自分の義ではなくという意味です。イエスをメシヤ救い主と信じて神が義と認めてくださるのがキリスト信仰による救いです。

10:キリストを信じた人の2番目の段階は何か?そうです。聖化・ホーリネス、キリストを信じた人はどうなるか?キリストと共に生きる中で様々な苦難の中で、だんだんと、さらに深く、さらに親しくイエスを知っていく。それがキリストとその復活の力を知っていく事につながります。キリストの苦難にもあずかる。共有するとかコイノニヤと言います。キリスト者はそれぞれに与えられたたまものを相応しく用いて生きるとき、良いことばかりではなく、自分の弱さや苦難に直面します。これがキリストの苦難にもあずかることで、それを通してあなたの生き方がキリストに似てくるのがキリスト者最大の特徴。専門用語で聖化されると言います。これがないとあなたのクリスチャン生活はどこかがずれています。一言でいうと愛の実践に生きているか、どうかと言う事です。

11:③栄化。パウロは、何とかして死者の復活に達したい。キリストに引き上げてもらって霊的な復活に達したいと願っている。栄光の体に変えられる事を栄化と言います。glorification

12:只いまはこの状態には達していない。キリストについていくべき追い求めているのです。そのためにキリストが私をとらえてくださった。キリストがパウロを自分のものとされたのです。彼は主に召されるときまでキリストにある者、追及者として走り続け、そしてキリストが彼をとらえてくださっている。これが今を生きる彼の生き方でした。

適用

実は私達もパウロの生き方と同じように生きています。キリストを信じた時にキリストと命でつながり、聖化されつつ、この地上の生涯を歩み、キリストとの交わりを深めてだんだんとキリストの魅力を知りキリストの人格を受け継いでいくのです。

 

そうした流れの中で生きると性質がキリストに似てくる。具体的には欲深い人ではなく、愛情深い人になります。それが隣人愛となって現れます。キリストのように、そして使徒パウロのように、また、聖書に出てくるキリスト者のように。私達も人生が大いに変わるのです。偽物ではなく。

 

それは口だけで愛するのではなく、愛が実践に変わる人となります。そう生きるときに多くのキリストにある苦難があります(10節)でも愛に生きるとき、あなたの周りの人が幸せになります。この逆はありません。あなただけが幸せになり、周りがバタバタ倒れていくのはキリストの愛の中で生きていない証拠です。①信仰によってキリストと一つになった救い、②次の段階聖化、キリストに似る。愛の実践を通して。③最後は栄光の体に変わる(栄化)今はキリストに捕らえられキリストの力によって追及者として愛の実践に生きる。これがキリスト者の生き方です。