イエスの働きなしに収穫はなし

2022年12月22日

2018年9月2日
参照聖句:ヨハネ21:1~14
説教題:イエスの働きなしに収穫はなし

おはようございます。今日も共に聖書から学びましょう。聖書を調べてみると復活の栄光の体のイエスが週の初めの日に、朝から夜にかけ5回続けて信者の前にご自身を現わしている事が分かります。まず初めに①マグダラのマリヤに②他のマリヤ達に③詳しく書いてありませんがシモン・ペテロに④エマオの途上にあった弟子のクレオパ達に⑤日曜日の夕方トマスだけ不在の時に10人の使徒達に戸が閉められた部屋に現れた。ここまでが日曜日の出来事です。続いて⑥8日後トマスを含めた使徒達に現れ、今日の聖書箇所は⑦テベリヤのガリラヤ湖畔で7人の使徒達に現れた(ヨハネ21章)。
⑧500人以上の信者たちに(Ⅰコリント15:7)。⑨ヤコブに(Ⅰコリント15:7)⑩天に帰る時オリーブ山で弟子達に現わしました。(使徒1:3~12)。
この様に10回もイエスはご自身を現わしてくださいました。それでは7回目に復活のイエスが現れたところから学びましょう。聖書箇所はヨハネ福音書21:1~14。3つの流れ。
①漁に戻る弟子達1~3②イエスの顕現4~11③和解の食事をする弟子達12~14。

1、漁に戻る弟子達1~3
1:場面を確認しましょう。今迄はイエス様が復活して8日後の事でした。場所はエルサレムでした。今日の場面は全く違います。この後とありますが、いつからこの後なのでしょうか?26節にありますように、8日後からがこの後という事になります。何日後かは具体的に書かれていません。8日後~天に帰る40日の間という事になります。場所はどこでしょうか。エルサレムでしょうか。そうではありません。ペテロたちの出身地、ガリラヤです。彼らにとっては故郷であり心休まる場所。テベリヤの湖畔とありますので、ガリラヤ湖西側にあるテベリヤと言う町の近くとなります。ここで7人の弟子達にイエスが現れたのです。弟子達にはこれで合計3回目という事になります。

2:7人の弟子達がいました。ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)、他2人で合計7人。

3:ペテロが「わたしは漁に行く」と言っています。この時間帯は何時ごろでしょうか。昼間でしょうか。違いますね。実は夜中です。夜中でなければさかなは網が見えるので逃げてしまいます。漁法は投網漁。網を投げる手法ですね(やってみる)。それにしてもペテロの言葉を聞いて皆さんはどのように感じますか。さあやるぞという感じですか。それとも寂しい感じですか。私は彼の言葉を聞くと寂しさを感じます。
ペテロにすればイエス様はガリラヤで会おうと命じたのに、もうイエスが甦って何日もたっているのに。イエス様がまだ来ないのです。一体いつイエス様と会えるだろうか。そんな事を考えると恐れや不安で一杯だったのではないか。それと故郷に戻ったペテロは家族を養っていかなければならないし。収入がないのでこれからどうするか。メシヤ的王国でイエスの家来として力ある立場に着けると思ったのに何とも残念。全く、これからの人生の事が見えてこないし、他の弟子仲間の生活の事も考えなければならないし。ペテロはリーダーだから色々と考えるわけです。これは当然です。

そこで最終的に選んだ選択肢が漁師に戻るという事でした。かれは小舟に乗り込み漁をしますが何もとれませんでした。この箇所はイエス抜きでは何も収穫がないのだと言う事を教える為の神の摂理ではないかと思います。

②イエスの顕現4~12
4:でもイエス様は弟子達を見捨てるお方ではありません。再び弟子達の前に現れたのです。しかも彼らの漁を見守っていたのです。彼らが漁を始めた後数時間後、夜が明けそめた時ですからまだ薄暗い時間帯ですね。
5:ペテロたちが何もとれない事をご存知でしたので「子どもたちよ、食べる物がありませんね」と岸から声をかけています。彼らは「はい有りません」

6:右側に網をおろしなさい。そうしたらとれます。イエス様は魚がいる場所をご存知でした。彼らはイエスの言うとおりにすると沢山の魚が入っていたのです。後で数えると153匹でした。

7~8:イエスが愛されたあの弟子とはヨハネのことです。彼は霊的洞察力が鋭いです。「主です」と言うと、ペテロは裸であったので上着をまとい飛び込みました。なぜ裸かと言うと彼は網を下ろすたびに障害物で絡まったりしていないかを潜って確認するのです。その為に裸になる訳ですが、イエスだと分かると上着を着て飛び込み岸に向かいます。何とも衝動的な行動をするペテロです。

9~10:イエス自ら食事の用意をする。パンも魚も用意されていたのです。
11:ペテロが網を陸地に引き上げ魚を数える。153匹いたにもかかわらず、網は破れない。イエスが関与するところには破れがないという事か。

③和解の食事が始まる。12~14
ここでイエスは弟子達を責めることをせず和解の食事会がなされていきます。ここが彼らとイエスの信頼関係の回復、霊的な回復がなされる大切な食事の場面であります。ユダヤ人にとって食事を共にすることは和解を意味します。これこそ彼らの回復の大きな一歩が踏み出されたのです。
適用
○イエス抜きでは収穫はない
6節:イエス抜きで過去の生活に戻ったペテロの漁は徒労に終わりました。私たちの歩みも主への信頼を忘れイエス抜きで頑張って生きようとするならば空回りばかりです。祈らないからみこころが分からない。自分の力や知恵で頑張るからイエスの力が働く余地がない。結果は味気ない信仰生活となる。このようなイエス抜きの信仰生活とオサラバしましょう。
逆にイエスの所に来ようとする者には「、子どもたちよ、食べる物がありませんね」とイエス自ら語り掛け食事の用意をしてくださいます。主は私達の必要をご存知のお方ですから必要な分は必要な時に備えて下さる神です。
結び
○イエスと和解する。当時のユダヤ式生活で食事は和解のしるしでした。私達の歩みはどうでしょうか。神の前に罪を犯したら、そのままにしない。祈り、悔い改め、正しい関係を持つことが大切です。人と喧嘩したら和解する。正常な関係を作る。あるいは最悪の結果にならないようにする。弟子達にはこの後ドラマがあります。特にペテロにはドラマが待っています。いずれにしてもガリラヤでのイエスとの再会は弟子たちのこれからの人生を決めるものでした。私たちとも復活のイエスは共にいて人生を導いてくださっています。イエス抜きで収穫なし。主を仰ぎ見て生きよう。