使徒信条⑤
2016年4月24日
参照聖句:マタイ8:18~20 ローマ9:5
説教題:使徒信条⑤
今日は使徒信条の第5回目の学びになります。今迄使徒信条とはどのようなものであるかを学んできました。思い起こしてみますと、意外と知らないことが多くある事もわかりました。この使徒信条は使徒たちが作ったものではありませんが、使徒たちが教えていた内容、即ち聖書と内容が同じですので使徒的権威があるという事で使徒信条と呼ばれています。私たちが安心して告白できる信条であります。キリスト教会では千年以上にわたって告白してきた大切なものであります。
また洗礼式の時に必ずこの使徒信条に書かれている内容を確認してから洗礼を受ける様にしていました。そしてこの告白、信条を知る事によって異端の教えから守られました。でありますからこれに照らすことによって異端の教えか正統的なものかを判別する事が出来るのです。
過去4回、使徒信条全体について、また父なる神について学びました。子なる神であるイエス・キリストはどの様なお方かを学びました。今日は子なる神であるイエス・キリストについて2回目の学びとなります。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じるとはどのような意味があるのでしょうか。
1、キリストは人である 2、キリストは神である 3、何故キリストはこの世界に来られたのか
1、キリストは人である マタイ8:18~20
この箇所は一人の学者がイエスに従ってついていきたいと願い出ていますが、これに対してイエスは彼の心を見抜いて(即ち、イエスをただ単に一人の立派な先生としか見ていないのです)キツネには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には「まくらする所」さえないのだと言って追い返しました。イエス様ご自身は落ち着いて寝る場所さえないのだという事です。この時に自分を指して使った言葉が「人の子」という言葉です。これは人の弱さ、立場の低さを表している言葉です。このようにイエスはこの地上に於いてヨセフとマリヤを通して聖霊によって生まれましたが完全に人として生まれ生きたお方です。
そして地上の生涯を33年間非常に貧しく生活されたのが人としてのイエス・キリストの姿です。私たちと同じように完全な人であったのです。右半分は神で、左半分は人であったということではありません。どこまでも完ぺきな人でありました。ですから涙を流し、時には怒り、隣人を愛したのです。しかしただ一点私たちと違ったところがあります。それは何でしょうか。一度も罪を犯したことが無いという事です。
2、キリストは神である ローマ9:5
ローマ9章~11章はイスラエル人に対する神の祝福の約束を述べているところです。キリストも人としてはアブラハム、イサク。ヤコブ、そしてダビデ王の子孫としてお生まれになりました。しかしここではキリストがすべてのものの上にある子なる神として永遠にほめたたえられる神だと述べています。聖書の神は唯一なる神ですが、三つにして一つなる神、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神、即ち三位一体の神です。キリストは神ですから、世界を創り、人を造り、人を生かし、今も人の命を支配しているお方です。キリストは完全な人であるとともに、完全な神、世界の創造者、全能なる神なのです。キリストは2つの性質を持っている事をしっかり確認してまいりましょう。
3、何故キリストはこの世界に来られたか
ここで疑問に思う事は、では一体なぜキリストは神であるお方なのに、人となってこの世界に来られたのだろうかという事です。その理由を4つ述べます。
①ヨハネ1:18 真の神がどのようなお方であるかを人に示すため
だれも真の神を見た人はありません。故にキリストが人となって下さり、キリストを通して真の神がどのようなお方であるかを示す為に来たのです。独り子の神が神を解き明かすためである。今日の暗唱聖句の所です。週報読んでみましょうか。
②Ⅰペテロ2:21 人の生き方の模範を示すため
③私たちの罪の身代わりになる為
この為にはどうしても人と同じ体を持たなければならなかったのです。
④ヘブル4:14~16 大祭司として私たちをとりなすため
結び
キリストがこの世界に来られたのは私とどのような関係があるか考えてみよう。
私たちはキリストを通して真の神とはどのようなお方であるかを知る事が出来る。
私たちはキリストの十字架の御業を通して真の救いはどのようなものかを知る事が出来る。
私たちはキリストを通してどのように生きるかを知る事が出来る。
私たちはキリストの言葉を通して私たちの将来に何が起こるかを知る事が出来る。
私たちはキリストを通して真の神は私たちに答えて下さるお方である事を知りました。
以上私たちの主であるキリストはこのように私たちと関わり恵みをあふれるばかり与えてくださるお方であります。このキリストを信頼して歩んでまいりましょう